黒瀬杜氏の里

薩摩半島の南西部の端に、南さつま市笠沙町には「黒瀬」という地区があります。
山の斜面に沿って築かれたこの地区は、広い耕地に恵まれず、人々は半農半漁、重ねて、農閑期には男たちが出稼ぎに出て生活を支えました。
明治32年、法律によって焼酎の自家製造が禁止され、蔵元がつくり手を雇い入れるようになり、黒瀬地区の男は蔵元へ出稼ぎに行くようになりました。
蔵子として入り、やがて焼酎製造の技を学び、経験をつんだ者の中からは焼酎製造の職人(杜氏)も生まれ、仕込みを任されるなどと評判になり、黒瀬地区から1人、また1人と焼酎造りに携わるものが増え、昭和30年代には黒瀬地区で杜氏や蔵子合わせて300余人が、毎年、蔵元に出て行きました。鹿児島の蔵元のほどんどに「黒瀬」出身者がいる状況で、その活躍の場は九州各地の他、山口や四国まで及んだと言われます。

しかし、昭和40年代の日本の高度経済成長期とともに、焼酎製造においても、大量生産のための機械化がどんどん進められました。
焼酎造りで最も人の技、経験がいるとされる「麹づくり」の自動化にも成功、また昭和50年代の空前の焼酎ブームにより、ますます機械化が進み、黒瀬杜氏の活躍の場は、次第に狭められていきました。
現在、「黒瀬杜氏」は、10数名ほど、その中でも現役で活躍しているのは、ほんの数人と言われます。

鹿児島県南さつま市笠沙町の黒瀬地区の写真
黒瀬地区
坂道が多いこの地、山の斜面に沿って小さな段々畑が見えます。人口が減り、田畑の手入れをする人も少なくなり、緑の濃いこの地区は、ある種の独特な雰囲気があります。

祁答院蒸溜所では、「昔ながらの焼酎造り」にこだわり、「木桶」を使ったり「手造り麹」での仕込みに取り組むと決め、製造開始にあたり「黒瀬杜氏」の、技や伝統を受け継ごうと、黒瀬地区に足を運び、黒瀬杜氏を探しました。
黒瀬 明(くろせ あきら)氏は、昭和9年に黒瀬に生まれ、20代から焼酎造りに携り、鹿児島県各地や、宮崎、本州では三重県まで杜氏として40数年渡り歩いてきた、熟練の黒瀬杜氏です。
H19年の時点では、黒瀬さんは73歳と高齢なこともあり、黒瀬地区で奥様と共に半農半漁の生活に戻られていました。しかし、何としても昔ながらの技術・経験を持った黒瀬杜氏から教えを請いたいと、無理を承知で何度もお願いをし、平成19年10月の製造開始から、来ていただきました。
若い蔵人が少しずつ経験を積み、機械を使っては知ることのできない「手造り」の焼酎製造技術を、今に受け継いでいます。